■こころフォト ~忘れない~|NHKより。
https://www.nhk.or.jp/kokorophoto/photo/231.html
汐凪ちゃんの父親の木村紀夫(きむら・のりお)さん(48)より
『汐凪へ』
汐凪。あの震災から、もう3年が過ぎてしまったけど、お父さんはまだ、汐凪が津波の犠牲になったということが実感できないでいる。
現実であることは、理解できているのだけれど、それはまるで突然お父さんの前からいなくなってしまっただけで、汐凪はどこかで元気にしているような…。
「汐凪ちゃんは、南の島で元気に走り回っている」と、未だに信じている友達もいるよ。
お父さんは、汐凪に謝らなければならないことがある。
大きな地震があったら津波が来るから家に戻っちゃいけないと、しっかり教えてなかったことをとても後悔しているんだ。
汐凪ならきっと、ちゃんと教えてればその通りにしっかり行動できたはずだ。
ほんとうに、申し訳なかった。
そしてまた、安全な児童館にいた汐凪が、どうして爺ちゃんの車に乗って家に戻らなければならなくなったのか、それが不思議でならないよ。
だって爺ちゃんは、お姉ちゃんを学校に残していったのに、なぜ汐凪だけ連れて行ってしまったのだろう。
今となっては、考えても仕方のないことだけれど、でもそれは汐凪がお父さんたちに残してくれた教訓だと思うし、伝えていかなければならないことだと思うんだ。
そうだね、汐凪はお父さんに生きてやらなければならないことを残してくれた。
地震が来たら海の近くにお家のある子供を、親が迎えに来たからといっても帰してはならないし、親も決して家に連れ戻ってはならないということ。
また、親は、子供が自らの判断で危険を回避しなければならないことを教えなければならない。
いつ何時でも、必ず親が子供を守ってやれる状況にあるわけではないのだから…。
大熊町の行方不明者は1人になったよ。
汐凪だけだ。
その「1」という数字も、汐凪が残してくれたもので、その意味についてはずっと考えていかなければならないことだと思っている。
汐凪をしっかり捜してやれない原因をつくった原発事故は、お父さんたちが求めてきたお金を使って消費して得る楽な生活、それの代償のような気がするんだ。
だからその「1」という数字は、人の生き方を問い直す為の大きな数字だと思う。
汐凪のおかげでたくさんの心ある人たちに出会ったよ。
未だに警察や消防、ボランティアの方々が、放射能を浴びる危険を冒してまで汐凪を捜しに大熊に入ってくれている。
お父さんの生活を支えようと集まって来る人達もいる。
それは、汐凪がお父さんに与えてくれた宝物だね。
本当に、ありがとう!
お父さんは今、お姉ちゃんと一緒に長野の白馬村で新しい生活を始めている。
ただね、ここに汐凪がいないのが淋しいよ。
お母さんも恋しいし、お爺ちゃんにも会いたい。
また、6人で生きていけたらいいね…。
汐凪は相変わらずお母さんたちを笑わせながら、飛び回っているのかな…。
俺もいつかそこに加わらせてほしいな。
それまでは、ここでの生き方、汐凪を捜すこと、伝えること、そうすることでずっと汐凪と繋がっていけると信じて生きていくよ。
大丈夫、お父さんたちもずっと一緒に居るから…。
▲こころフォトのページをご覧になった千葉市の伊藤芳朗(いとう・よしろう)さんより
お父さんの手紙を読ませていただきました。
汐凪さんはまだ若いのに残念なことだと思います。
私は当時、自宅におり、揺れが強かったのを覚えています。
まだ4年しか経っていないのに、テレビやラジオではあまり報道されません。
私は原子力がこのような形で社会の表面に浮き彫りになるとは思いもよりませんでした。
たくさんの方がお亡くなりになり、残念の極みです。
私は平和が続いていってくれることを願います。
▲こころフォトのページをご覧になった、京都市伏見区の川見健一(かわみ・けんいち)さんより
東日本大震災の1年前の小学校入学の日の汐凪ちゃんのうれしそうな写真を見て、父、木村紀夫様のメッセージをお聞きして、涙があふれました。
お父様と奥様を津波で亡くされたうえに、汐凪ちゃんが大熊町で唯一、行方不明のままであることを知り、言葉を失いました。
「汐凪を捜して」という本が出版されていることを知り、さっそく買い求め、読ませていただきました。
紀夫様が防護服を着て、放射線量が高い地域で捜索され、汐凪ちゃんの体操着やスニーカーを見つけられたことを読み、感動しました。
また、「汐凪を捜して」の本に書かれていた、「汐凪」という汐凪ちゃんの誕生から小学校入学までの写真集を購入しました。
写真の中には、紀夫様がみずから除染して持ち帰られた写真もあり、頭が下がりました。
汐凪ちゃんが1日も早く見つかることを、京都の地からお祈りいたします。
また、亡くなられた父の王太朗様、奥様の深雪様のご冥福を心からお祈り申し上げます。
▲おはよう日本のリポートをご覧になった、群馬県榛東村の川島淳子(かわしま・じゅんこ)さんより
木村紀夫さんへ
何の罪も無い大切なたいせつな宝物であるご家族を突然のできごとで亡くされ、わたくしには想像もできないほどの悲しみの中に生きていらっしゃることと思います。
にこやかな表情のお地蔵さまに手をあわせていらっしゃる木村さんのお姿に言葉もありません。
が、どうぞご家族の分も生きてください。
生きていかれることの方が、よほどお辛いことでしょうが、どうぞ生きてください。
お体を大切になさってください。
木村さんのお姿に、少しくらいの辛い出来事などに負けてはいられないと思いました。
■福島 大熊町でただ1人不明の女児 遺骨の一部見つかる | NHKニュースより。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161225/k10010819091000.html?utm_int=news-social_contents_list-items_005
12月25日 6時25分
福島県大熊町で東日本大震災の津波に巻き込まれ、町内でただ1人、行方がわかっていなかった当時7歳の女の子の遺骨の一部が見つかり、警察のDNA鑑定で本人と確認されたことが、女の子の父親への取材でわかりました。
東京電力福島第一原子力発電所が立地する福島県大熊町に住んでいた当時小学1年生で7歳だった木村汐凪ちゃんは震災の津波に巻き込まれ、町でただ1人行方がわからないままになっていました。
父親の木村紀夫さんによりますと、今月9日、町内の熊川地区の海岸で行われていた復旧工事の現場で、汐凪ちゃんが当時身につけていたマフラーと一緒に首やあごの骨の一部が見つかり、その後のDNA鑑定で本人の遺骨と確認されたと、今月22日に警察から伝えられたということです。
木村さんは、震災のあと5年9か月にわたって原発事故で避難区域に指定された町内の海沿いをたびたび訪れ、汐凪ちゃんを探し続けていました。
木村さんは「汐凪と特定されてよかったと思います。しかし、まだ遺骨の一部しか見つかっていないので、これからも探し続けたい」と話していました。
福島県内で、震災の犠牲者の身元が特定されたのはおよそ11か月ぶりで、これで行方不明者の数は1人減って196人になります。
▲父親の紀夫さん「見つかりほっとしている」
木村汐凪ちゃんの父親の紀夫さんはNHKの電話取材に対し、「汐凪をずっと探し続けてきたので、見つかったことは、ほっとしています。一方で、原発事故のせいでなかなか捜索ができず、発見が遅れ強い怒りを感じています」と話していました。
そのうえで、今後については、「すべての骨がみつかるまでは、引き続き捜索を続けるつもりです」と話していました。
■「汐凪...やっと会えたね」 大震災で不明女児の遺骨...父の元へ
(福島民友新聞) - Yahoo!ニュースより。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161225-00010009-minyu-l07
福島民友新聞 12/25(日) 10:56配信
大熊町のがれきから9日に遺骨が見つかり、DNA型鑑定の結果、東日本大震災の津波で行方不明となっていた同町の木村紀夫さん(51)の次女汐凪(ゆうな)さん=当時(7)=と判明した。
大熊町は東京電力福島第1原発が立地し、今も全域が避難区域。
避難先の長野県白馬村から捜索に通い続ける木村さんは「娘からクリスマスプレゼントを受け取った気がする」と話した。
木村さんによると、首と顎部分とみられる遺骨を、自宅近くのがれきから作業員が発見した。
鑑定で汐凪さんのものだと分かり、22日に本県警から連絡を受けた。
汐凪さんが2011(平成23)年3月11日の震災当日に履いていた靴も、12年6月に付近で見つかっている。
「『ここにいるよ』とずっと手を振っていたのだろうと思うと、申し訳ない気持ちになる」と木村さん。
福島民友新聞
★父親にとって娘の身体の一部でも見つかった事は、悲しさも募る「クリスマス・プレゼント」だけど今も娘を探し続ける父親への、希望になったと思います。
私的な運用になり法律的には難しいかも知れないが、自衛隊を派遣して付近の捜索を重点的にやれないのだろうか?。
父親に逢いに帰りたくて、汐凪(ゆうな)さんが早く見つけてとメッセージを発信したと思える。
必ず娘を見つけると父親の木村紀夫さんは、今も時間を見つけて汐凪さんを探しているそうです。
父親が娘を想う気持ちは、私も痛い程わかります。